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★津軽三味線★加藤流三絃道「訓栄会」公式ブログ 加藤訓栄のちょっといい話
今日から「師走」ですね・・・
12月と聞くだけで、なんだか忙しい気になってしまいます。
「忙しくてとても時間がない・・・」とよく言います。

とある冊子の今日の教訓という欄に「寸陰を惜しむ」「積小為大」という言葉がありました。

「寸陰を惜しむ」は、中国の陶淵明の「雑誌十二首」の一節だそうです。
寸陰とは、わずかな暇という意味で、日常のわずかな時間を有効に活用することの大切さを述べています。
「積小為大」は、二宮尊徳の言葉で、小さなことを積み重ねることにより、やがて大きな結果が得られるという意味合いです。
両者の言葉には、「積み重ね」において共通点があります。
どんなに、多忙な人でも寸陰はあるものです。
寸陰を活用するかしないかによって、結果に差がつき、将来の展開に大きな影響を及ぼすでしょう。
寸陰を見つけ、寸陰を惜しんで、何か勉強を始めてみましょう。

ハッとさせられる言葉でした。
努力は人を裏切らない!

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ここのところ、本当に暑いですね・・・うだるような夏の暑さも、子供たちにとっては、待ちに待った「夏休み」を最高に盛り上げてくれる演出なのかもしれません。

先日、小学6年生の音楽の教科書を見せてもらいました。日本の楽器として、1ページにわたって紹介されているじゃないですか。
私が、小学生の頃の教科書には、日本の民謡として、ソーラン節ぐらいしか載ってなかったと思うのですが・・・そして、「いろいろな音の違いをききくらべてみよう」の所では、なんと、「津軽じょんから節」として、木下伸一さんの写真まで!音の違いをというところで琴や尺八ではなくて、三味線、それも津軽三味線がピックアップされている・・・生きるためのすべであった津軽三味線が、着実に日本の文化として浸透され、これからを担う子供たちに紹介されていることは、本当に感慨深いものだと感じました。
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桑名の方々の薩摩に対する気持ちがどれだけのものなのか、よくわかったのだが、
付け加えて、こんな話もしてくれました。

河川工事途中も、何度か氾濫したそうだ。
何故なら、徳川の命により、東の堤防(尾張藩側)のほうが高くなっていたのだ。そのために、大雨が降ると、川の水は、桑名側へ決壊してしまったのだ。
その度に、薩摩藩の藩士の中には、責任をとって切腹する人がいたそうだ。

桑名では、薩摩藩への恩と、尾張藩へのうらみつらみ(?)は、語り継がれているらしい。
桑名の恩(宝暦治水事件)とは・・・

1753年(宝暦3年)徳川幕府は、琉球貿易によって、財を得ていた薩摩藩を恐れて、毎年氾濫による被害が大きかった木曽三川の分流工事を薩摩に命じた。
工事費用は、薩摩が全額負担、大工などの専門職人を雇ってはならないとした。
薩摩は、露骨な幕府の弾圧政策に反発を極め、このまま潰されるよりは、一戦交えようとかg的な意見まで噴出したが、時の薩摩藩家老・平田靫負(ゆきえ)は、「民に尽くすも、また武士の本分」と説破して、工事を引き受けることになったそうだ。
だが、工事は、難を極め、派遣された薩摩藩士の過労や伝染病による死亡が相次ぎ、抗議して、切腹する藩士たちも続出した。
だが、平田は、この件に関して幕府との摩擦を回避しようと切腹した藩士たちを事故死として処理している。
病死33名、自殺者52名・40万両にも上る工事費用(現在にして300億円)と多大な損失を薩摩藩は、被る事となった。
分流工事は、1年3ヶ月ほどで完成したが、平田は幕府への多大な損失の責任を取って自害した。享年50歳。

桑名市の海蔵寺には、平田をはじめ、薩摩藩士の墓所がある。

桑名の人々は、そのときの恩を忘れないという。
「来年の鹿児島公演は、必ず参加させていただきます。」という言葉が本当に心強かったです。
先日の土曜日、桑名教室のお稽古終了後、桑名の会員さん方との食事会がありました。
久しぶりの皆さんとの会食は、とても楽しかったです。

会話も弾み、来年の「鹿児島公演」のことに話が及んだとき、
「桑名は、薩摩(鹿児島)に恩があるので、必ず行きます。」と、力強く話されるのだ。

「恩?」さて、どういう事だろうと思って、詳しく聞くと次のようなことである。

桑名の周辺には、東から、木曽川、長良川、揖斐川の3つの大河がある。
今でこそ、きれいに3本に別れいるが、昔は、頻繁に氾濫を繰り返し、農作物への被害が大きかった。
江戸時代に、河川工事が行われ、今の三川になったのだが、その工事を行ったのが、地元の名士ではなく、薩摩藩の藩士たちなのだそうだ。
世に言う、宝暦治水事件である。

この続きは、また明日。
桜の花が、ちらほら咲き始めましたね。
温暖化の影響で平年より10日ほど、早いようです。
桜といえば、入学式のイメージであったのに、卒業シーズンに咲き始めるなんて、なんだか心が痛みますね・・・

昨日は、名古屋市のほとんどの小学校で卒業式が行われたようです。
朝、ビシッとスーツを着た子供たちが、登校していく様子を目にしました。
訓栄会にも、昨日、卒業式だった子供がいます。

春は、慣れ親しんだ仲間との別れや、新しい人々との出会いがあります。
新しい、学校、職場など慣れない環境や、新しいことの取り組みで戸惑うことも多々あるかもしれません。
昨日まで、知らないもの同士でしたのだから、気の合わない人もいるでしょう。
ですが、そういった人とも上手く対応していく必要があります。
良き出会いを通して、様々なことを教わりながら、私たちは、成長していきます。
互いに心を通わせ、自らを磨き上げていくことで信頼が生まれます。
「この人に出合えてよかった」と慕われ、頼られる人間となるよう、自己を成長させていきたいものです。

頑張れ!フレッシャーズ!
自然は、立派やね。長い間、日記をつけているが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど変わらない。そういうのが法だ。
 法にかなったのが大自然や。だから、自然の法則を真似て人間が暮らす。
 人間の欲望に従っていては、迷いの世界だ。
 真理を黙って実行するというのが大自然だ。誰にほめられるということも思わないし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。
 時が来たならば、ちゃんと花が咲き、黙って褒められても褒められなくても、するべきことをしてそして黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。
昨日の永平寺の住職・宮崎禅師の話を聞かれた棋士の米長邦雄さんは、
 「自然は、立派だと思う。という話を聞くと恥ずかしく思います。」と話し始めた。

 道元禅師の教えは、禅の修業は、日常の所作の中にある。頭の中で考えたりする知識とは違い、心の中にあるのだと思う。
 人間は、どうしても損得が先にくる。損得を取り除くと、人に優しく、自然にやさしく、思いやりをもつことが出来る。自分さえよければというところまでもなくても、どうしても色々な欲がある。それを表面に表さないようにするところまでが、普通の人の修行の限界だと思う。ただ、損得をなくすことが出来れば一番良いということさえ、わかっていれば、それに近づくことが出来るのだと思う。
 無になるためには、何でも良いのだが、夢中になって何かに、打ち込むことが無になる近道だとと思う。
 夢中になって打ち込むものがある人は、幸せである。打ち込むものがない人は、不幸な状態だと思う。
 一心不乱に打ち込んでいるときは、損得勘定のない世界で頑張っている自分がいるのだと思う。

二人の話を聞いて、色々と考えさせられた。
これから、どのようにあるべきかということはもちろんであるが、生徒さん方は、夢中になれるものを求めて、私のところに通ってくださっているのだろう。
幸せのお手伝いが出来る仕事をさせてもらる私は、幸せだと改めて考えさせられたテレビ番組であった。


今朝。NHKのテレビでご覧になった方もいらっしゃるだろうが、
福井県の永平寺の住職・宮崎えきほ禅師(2004年当時104歳)のインタビューに心が打たれたので、ご紹介したいと思います。

宮崎禅師は、11歳で永平寺に入り、その後93年間、禅の修業をされているそうだ。

 道元禅師は、「禅をすれば善き人となれる」と教えを説いている。
 人間は、名誉とか、地位とか、見栄とか、わがままとかそんなもので一杯だ。欲は、克服するすべを覚えないといかん。それが坐禅だ。
 坐禅をするときは、何も考えない。前後裁断、そのときそのとき、一息一息しかない。何かを考えたらそれは余分や。
 坐禅ということは、真っすぐということや。真っすぐというのは、背筋も首筋も真っすぐ、右にも左にも傾かない、真っすぐということは、正直ということ。
 心身は、一如だから身体を真っすぐにしたら心も真っすぐになる。
 禅とは、座ることではなく、生活の全てと同じ。
 スリッパを脱ぐのも坐禅の姿や。スリッパをそろえるのは当たり前のこと。スリッパがゆがんでいたらほっておけない。スリッパがゆがんでいるということは、自分がゆがんでおる。
自分がゆがんでおるからゆがんだやつが直せないんや。
だから物を置いても、ちぐはぐにおくのと、真っすぐに置くのと、すべて心が表れている。
 心がまっすぐだったら、全てのものを真っすぐにする必要がある。
人間は、わがままが自由だと思っている。
 ちゃんと型にはまったものが日常でなければならない。
 
 自然は、立派やね。長い間、日記をつけているが、何月何日に花が咲いた。何月何日に虫が鳴いた。ほとんど変わらない。そういうのが法だ。
 法にかなったのが大自然や。だから、自然の法則を真似て人間が暮らす。
 人間の欲望に従っていては、迷いの世界だ。
 真理を黙って実行するというのが大自然だ。誰にほめられるということも思わないし、これだけのことをしたら、これだけの報酬がもらえるということもない。
 時が来たならば、ちゃんと花が咲き、黙って褒められても褒められなくても、するべきことをしてそして黙って去っていく。そういうのが実行であり、教えであり、真理だ。

つづく
 
テレビドラマの中に、こんな台詞があった。

「共生と書いてともいきと読む。仏教の根本は、共生の精神だと思う。
 自分のためだけの生き方ではなく、自分の生き方が、人に感銘を与え、人に幸せをもたらす。
 自他共に生きる共生の心が、存在しなければいけない。
 したがって、自分の執着、執念で動けば、自分を縛すると同時に、他人をも縛することになり、
 共生の世界を失い、修羅の世界に没してしまうことになる。」

ついつい自分のことだけを考え、動いてしまう傾向がないだろうか。
上昇志向ももちろん重要なのだろうが、周りの人に助けられ、生かされている。

自分の生き方が、人に感銘を与え、人に幸せをもたらす。
そんな生き方が出来たらと、また、ひとつ教訓となった。
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● チケット担当の訓里さん

今日は、訓音さん、訓里さんと「30周年記念公演」のチケットに関しての打ち合わせを行いました。
いつものことですが、チケット販売においては、かなり気を使います・・・

上の写真でもお解かりいただけるように、過去の書類等ひっぱりだし、
「あーでもない、こーでもない、そうだ、こうしよう!」
午前中から、夕方まで打ち合わせ、一筋の光が見えたところで、お開きとなりました。

公演まで、107日。
執行部、各担当者、会員の一人ひとり、やらなければならないことは、まだまだある。

がんばりましょう。